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1-6 元カノ、そしてレイナ


 翌日の審議に身が入らなかったのは言うまでもない。

 審議する法案の順序は、特に二緒さんが感情固定装置取締法を最優先
するよう強く求めて、他の議員達にもあまり反対する人はおらず、結局
ほとんどは選挙議院と企業院のリクエスト通りとなって、午前中には審
議が終了した。

 おれはレイナに捕まる前にそそくさと議員会館を後にして、メールと
例のマネキン人形で元カノと連絡を取り合い、その数時間後にはほぼ半
年ぶりの再会を果たした。
 俺たちは部屋の玄関前でしばし見つめあって、お互いの変化を観察し
あった。

「髪、伸ばしたんだ?」
 それが、あの携帯での会話の後の、再会の言葉だった。
「坊主頭でいる必要性も無くなったしな。ま、入れよ」
「うん」

 元カノの名前は、南みゆき。外見については、かわいい野球部のマネー
ジャを想像してくれればいい。ディテールについては各人のお好みに任
せる。ちなみにメガネはかけてない。笑顔がかわいい、騒がしすぎもせ
ず、おとなしすぎもしない、いたって普通の女子だ。
 明るくて、責任感が強くて、女連中にも人気があったが、半年前の記
憶の中の姿よりも若干痩せて頬も少しこけたかも知れない。
 みゆきは広い室内に驚いてひとしきりはしゃいでいたが、光子さんの
出してくれたダージリンティーの香りを嗅ぐとソファに埋まって黙っち
まった。

 ま、こいつがおれのところに話に来るなんて、用件は一つしか思い浮
かばないんだけどね。

 おれがちびちびとカップの縁に口を付け、みゆきはだんまりを続ける
様子を見かねたのかどうか、AIはティーポットを満タンに注ぎなおすと
一礼して部屋から出て行った。うぅむ、AI技術者怖るべし。

 窓の外の灰色の雨空も見飽きてきたので、おれは切り出してみた。
「イワオとうまくいってないのか?」
 みゆきは、こくりとうなずいた。
「ごめんね」
「何がだ?なんでお前があやまる?」
「だって、私、タカシ君も傷付いてる時に、イワオ君を選んだのに。こ
んな都合の時だけ、また来たりして」
 潤んだ瞳からは涙がぽたぽた垂れていた。
「泣くな。あやまるな。おれは死ななかったし、あいつもまだ生きてる。
お前のおかげでだ。それでいいじゃねぇか?」
「ねぇ、聞いてくれる?」
「聞きますとも」
 そんなつぶらな瞳でお願いされたら、断れるわけない。
「イワオ君がね、どんどん遠くに行っちゃうの」
「まぁ、プロになるってのはそういうこった。キャンプだってあるし、
高卒ルーキーが開幕一軍狙うなら、それこそ練習以外目に入らなくなっ
てて当然だろ」
「それは、私だって覚悟してた。しばらく会えなくなる事だって、しょ
うがないじゃないって」
「じゃあ、なんだよ?」
「イワオ君ね。タカシ君がプロを断念しなきゃいけなくなってから、
大物ルーキーの一人って事で注目されだして、立ち直ってくれたのはい
いんだけど・・・」
「ちやほやされて、悪い気はしないだろうな」
 大方の予想はついていた。
「そう、だよね・・・。それで、キャンプでもオープン戦でも活躍して、
どんどんファンも増えて」
「黄色い声援も増えて、ってか?」
 こくりと、うなずいた。
「いそがしくなる、会えなくなってくるって、わかってるつもりでいた
の。でもわかってなかった。騒がれ出してから、メールも電話も、ほと
んど私からだったし」
「それで?とっ捕まえて、問い詰めたんだろ?アタシと野球のどっちが
大事なの?、って」
「そんな事できないよ」

 おれが知ってる南みゆきは、普段大人しそうに見えて、ゆずらない時
は決して引かない強い女だった。けれど今は、そんな片鱗はどこにも見
えず、不安そうに肩を落としてうつむいていた。

「でも、何かはもちかけたんだろ?」
「・・・私ね、間違っちゃったのかな」
「何を?」
「たぶん、もうこれで会えなかったら最期だろうって時に、言ったの。
二人の気持ちに、鍵かけておこう、って」
「鍵って・・・」
「エモーション・ロック。略してEL。聞いたことあるでしょ?カップル
とか夫婦とかが、お互いの気持ちが離れないように固定しちゃう装置」
「けど、あれは市販されてないだろ?」
「ドラッグとかと同じだよ。私はやってないけど、でもELだって出回っ
てるものはあるの」
「・・・そんで、イワオは?」
「どん引き!あらら、っておかしくなっちゃうくらい」
 みゆきはもう、かわいそうなくらいに泣き笑いしていた。
「お前には、ほんとに感謝してる。お前がいなけりゃ、今のおれはい
なかった。でも、もういいんだ、だって」
 おれは、みゆきの傍に立って肩を抱いてやった。
「感謝、感謝よ?それだけ?同じくらい傷付いてたタカシ君は、その
タカシ君を置き去りにした私はどうなるの?」
 もう後は止まらなかった。
「どうにもならんだろ、もう。もういいから、これ以上、お前はお前
自身を責めるな」
「どうにもならないって、イワオ君も言った。でも、そんなのひどす
ぎる!ねぇ、タカシ君はそう思わないの?」
「思うさ。だけどな、イワオをぶん殴りゃ、それで気が済むのか?
もしそうならおれが殴りに行ってやる。なぁに、国会議員でも、もと
はダチ同士だ。痴話話のもつれからなら警察沙汰にもならんだろ。で
もよ、そんなんじゃ、気は済まないだろ?違うか?」
 みゆきは、おずおずとだが、首を横に振った。
「思い通りにならんことでいちいちELなんて使ってたら、ヒットラー
も真っ青な社会が出来あがっちまうぜ」
「でも、くやしいよ」
 ぽつりともらしたその言葉を聴いて、おれはふっと笑った。
「それでこそ、おれの知ってるみゆきだ。しばきあげたいなら、マス
コミの面前でやってやれ。あいつも肝冷やすぞ」
 みゆきは声を立てて笑った。
「そんでもって後悔したあいつをお前からふってやれ。それであいこだ」
「後悔しなかったら?」
「見下げてやれ。縁が切れて正解だったとせいせいしてやれ。おれが
保証する。お前はいい女だ。今だから言えるが、あいつにはもったいな
いやつだよ」
 みゆきの微笑みに、かつての明るさが戻ってきた。そのついでに調子
付いたのか、
「じゃあ、タカシ君には?」
「もったいないかもな。おれにはわからん」
「ずるい答え」
「人はみんなずるいのさ」
 くすっ、とみゆきは笑った。
「じゃあ、私もずるくなろっと」
「あんまりいたいけな男どもを泣かせるなよ。せいぜい二桁でとどまる
くらいにしとけ」
「そんなことしないよ!」
 ぱしんと肩を叩いてきた。じゃれあってた頃がフラッシュバックして
目が潤んだ。
「でも、その最初の一人にタカシ君を選ぼうかな?」

 小悪魔的な顔をおれはこずいてやった。大人をからかうものではあり
ません。肩を抱いてた手を離して、元々座ってたソファに戻ろうとした
おれの袖を、あいつはそっとつまんで引き止めた。

「私が本気だったら、タカシ君はどうするの?」
「それこそ、ずるい質問だな」
「誰か、決まった人でもいるの?」
「いるわけでもないが、いないと言ったら怒りそうな奴なら思い当たるな」

 自分で言っておいてなんだが、おれは苦笑した。いじらしい女の子と
いったみゆきとは正反対のあいつが、けど思い浮かんできたのは事実
だった。

「私が知ってる人?」
「知らないんじゃないかな。少なくとも高校にいた奴じゃない」
 みゆきはふと考え込んだだけで、いきなり言い当てた。
「もしかして、同じ一〇代の抽選議員の人?」
「鋭いな」
「いつから?」
「別に付き合ってるとかじゃねぇよ。初めて会ったのも卒業式だったし
な。いや・・・」
 あの橋での出来事の事を話そうかとも思ったが、なぜか口が重くなって出てこなかった。
「他校のファンだったって事?」
「そんなとこだ」
「ふ~ん。じゃ、私の勝ち目はまだあるんだ?」
「何の勝ち目だ?」
 うふふ、と笑ってごまかしたみゆきは、ぴょんと立ち上がって言った。
「ねぇ、また会いに来ていい?」
「たぶんな。だがおれもこれで忙しい身だ」
「いきなり議員様だもんね~!ほんとびっくりしたよ」
「おれもさ。お前がさっき言ってたELについてだって今度審議するん
だぜ」
「ほぇ~。タカシ君はELに賛成なの?反対?」
「市中一般には販売を禁止する法案らしいから、賛成かもな。さっきの
お前見てたら、尚更だ」
「あはは。もうあんなこと言わないよ。たぶんね」
「たぶんかよ」
 みゆきは居間から玄関に向かいながら言った。
「だって、人なんていつどうなっちゃうかわかんないでしょ?例えば、
私なんてまだ高校出たばっかの小娘だし未婚だけど、結婚してて子供も
いる夫婦なら、ELの重みはぜんぜん違うと思うもの」
「どうして?」
「旦那さんが二度と浮気しないようにELかけたいって奥さんが言った
ら、少なくとも私はその人にそんなことをすべきじゃないなんて言え
ないもの」
 即答できなかった。
「自分じゃ浮気を抑えきれない人もいるだろうから、それでも奥さん
の願いを聞き入れてくれる人もその中にはいると思うの。そしたら、
ELは二人の幸せのために役立つんじゃないかって、私は思うの」
「ノーコメントだ。お前が間違ってるとか言うんじゃねぇ。むずかし
くてすぐにはうまいこと言えないだけだ。てか、お前はそっちが本当
の用件だったのか?」

 うふふ、とまた笑ってごまかしたみゆきは玄関でくつを履き、戸口
を開けた。んで、そこにいる人影を見つけて、みゆきは固まった。つ
いでに言うとおれも固まってた。

 目の笑ってない笑顔で、そいつが硬直状態を破った。

「メール読んでないでしょ?」
「あ。ああ、来てたのか?気がつかなかった。すまん」
「で、この人は誰かな~、かな?」
「一〇代女性の陳情団その一さ」
「それなら私の所に来るべきじゃないの?」
「まぁそう言うな。顔見知りの議員がいたら、そっちに行く方が自然
だろ?」
「ふぅん、まぁいいわ。そういうことにしておいてあげる」
「中目さん?私は白木君のいた野球部でマネージャをしてた南です。
よろしくね」

 レイナは、みゆきから差し出された手をおとなしく握り返したと
思ったら、笑顔で爆弾を投げつけた。

「で、今でもマネージャをしているの?」

 みゆきは、一瞬きょとんとしたが、くすっと笑って爆弾をそのまま
おれにトスした。
「また会いに来るね、タカシ君」
 おれの手をきゅっと握ったみゆきは、そのまま守衛の所にかけて行き、
手を振りながらフェードアウトしていった。

「元カノだ。言っておくが、ふったのはあいつの方だ」
「ヨリを戻しに来たの?」
「さぁな。ていうかメールなんてお前送ってたか?」
 みゆきとの面談を決めた時には、抽選議員の誰からのメールも届いて
ないのは確認済みだった。
「さぁね!?」
 頬を膨らませたあいつは、そのまま自分の部屋へと戻って行った。

 居間に戻ったおれは、テーブルの上を片付けていたAIに尋ねた。
「なぁ、レイナの奴からメールなんて届いてたか?」
「タカシが南みゆきさんと面談を始められた頃に」
 なんて間の悪いやつだ。おれはメールを表示するように頼んだが、瞬
時に大画面で現れたメールには、たった一言。

『ばーか!』

 思わず何ポイントくらいのフォントで書かれたものか測ってみたくな
るくらいの大きな文字だった。夕刊の見出しの10倍くらいか?
 わけわからなかったが、その着信時刻は、みゆきがおれの部屋に入っ
たのと同じくらいだった。

「母さん、この後の予定って何か入ってたっけ?」
「今日は特に。しかし、今週末の日曜日に急な依頼が一件入っております」
「何だ?」
「プロ野球の開幕試合の始球式にと招請されています」
「ほー、どことどこのチーム?」
「オリオンズとサターンズです」

 確か、イワオが入団したのがサターンズだった筈だ。なるほどね。
高卒ルーキーが先発マスクをかぶった試合の始球式に、元相棒で抽選
議員になったおれがマウンドに登ればちょっとした話題にはなるわな。
 身体を動かしたくなってきたおれは、クローゼットに放り込んだ荷
物を紐解いて、高校時代には毎日はめていたグローブを取り出した。
使い古した革の匂いが新築の部屋の無臭に溶け込めず、おれの鼻を心
地良く刺激した。

 いつの間にか傍に来ていたAIにおれは言った。
「確か、この建物にフィットネスジムあったよな。キャッチボールで
きるようなスペースある?」
「テニスコートを多少アレンジすれば」
「それって時間かかる?」
「一五分ほどお時間を頂ければ」
「オーケー。柔軟とかもしたいしね。AIってキャッチボールはできる
の?」
「できなくはありませんが、どうせなら中目議員を誘われては?」
「へ、なんで?」
「始球式にはタカシだけでなく、中目議員も招請されていますから」

 ちょっと待った。始球式って、ほら、アイドルとかがへにょへにょ~
なボール投げて、バッターがお義理でスイングするっていう・・・。
確かに中目に向いてる役どころかも知れんが、そしたらおれが呼ばれた
ワケは?

「ピッチャーとキャッチャーが決まっているなら、バッターですか?
詳しくは私も分かりません。中目議員にでもお尋ね下さい」

 レイナがピッチャーでおれが空振りする役か?ミットを構えるのが
イワオでなけりゃそれでも良かったんだが・・・。
 釈然としないまま予備のグローブとバットを引っ張り出したおれは、
しぶしぶとレイナに連絡した。

 テニスコートではお互いに立ったままキャッチボールした後、おれが
腰を下ろしてレイナの球を受けた。へにょへにょな山なりどころか、普
通のグラブだと受けてて痛いくらいのいい音がした。女子野球部があれ
ばエースをはれるだろう。

「お前、部活でやってたわけじゃないんだよな?」
「身体動かすのは好きだよ。お役所仕事はだいたいデスクワークばっか
りだしね」
「そもそも、Pub.Cに休みなんてあるのか?」
「奴隷じゃないんだから、あるよー!他の国家公務員の規定と同じだよ」
 考えてみりゃ当然の話か。
「んじゃ週末に映画観にいったりとか、有給まとめて取って海外旅行と
かも?」
「してるしてる。お洋服見にいったりとか、遊園地とかだってね」

 なんか、子供の頃から文字通り国家の中枢を担ってる連中がそろって
コーヒーカップに入って回ってる姿は想像できなかった。

「仕事ができるからって、普通の子供としての感情が無いわけじゃない
んだよ?」
「知識は叩き込まれてるから、子供でも仕事できるわけだろ?そこら辺
の成長のバランスとかって、どうやって取ってるんだ?」
「ん~。お仕事って、だいたい二つに分かれるの。定型業務と非定型業
務。定型業務は決まりきったパターンに沿って処理するだけだから、AI
に指示するだけで終わりになるものが多いの」
「もう一つの非定型業務ってのは?」
「これは創造的なお仕事。一昔前までは、予算編成とか国会議員の質問
書とか答弁書とかその資料の作成とかに国家公務員の多くの労力が取ら
れちゃってたんだけどね。今は無いお金で予算を組むんじゃなくて、徴
収できたお金で予算を組むから無理は効かないし、国会議員の数は従来
より十分の一近く減って、道州議会に大幅な権限委譲してるから、国家
中央政府の担当する職務ってのはかなりスリムになってるの。
 今の日本は、より効率的な国家運営をしていく事が命題の一つだから、
その実現の為の方策を考案してくの。ね、おもしろそうでしょ?」
「まぁな、でも、そういうのって政治家の仕事じゃないのか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えないの」
「どっちなんだよ」
「例えばね、センセイとか呼ばれてる議員がごり押しして、道路でもハ
コモノでも造るような計画立てて予算がついちゃえば、それは造られ
ちゃうの。必要かどうかという基準は、『地元がそう望んでいるから』
てだけ。でもそれは効率的な予算の使い方かどうかで考えると、かなり
疑問の余地が残るの。
 政治家の仕事は、地元に道路を作ってくれっていう住民の声を代弁す
ることだとするでしょ?それはそれで一つの機能なの。でも、その住民
の供出する税金が年十億なのに、百億もかかる工事を地元に持ってこよ
うとしたら、何が起きると思う?」
「えーと、九十億の穴が他所に開く?」
「その住民達の十億だって、福祉や教育やいろんな公的サービスに使わ
なきゃいけないから、十億をまるまる使えるわけなんてない。費用を分
割する為に債券を発行して三十年に負担をふりわけたとして、その債券
を買ってくれる相手に金利もつけなきゃいけない。だから、そのお金の
使い方が効率的かどうかは、費やしたお金以上の利益が生み出されるか
どうかで判断されるの」
「道路持ってきたはいいが、それで医療も教育も役人の給料も止まっち
まったら意味無いもんな。けどよ、その論法を突き詰めてくと、くたば
りかけた老人に対する医療なんてお金かけるだけ無駄って話とかにも
ならんか?」
「冷たい言い方だけど、今までだって、助けられる命があっても、その
費用が負担できない人は助からない社会だった。二度の大震災とLV災害
とで、日本政府は変わらざるを得なかったの。無い袖をいくらでもふる
政府から、無い袖はふれなくした政府に」
「溺れている人を助けられるのは溺れていない人だけだ、ってか」
「それだけじゃ十分じゃない。溺れている人を助けられるのは、溺れて
いる人を助けても自分は溺れない人だけ、だよ」
「さっきの九十億の件だって、自分達で償還するつもりならまだしも、
他人の財布に手突っ込んでやらせろって連中の方がずっと多かったしな」
「お前のものはおれのもの。おれのものはおれのものってね」

 おれと中目はピッチング練習を切り上げて、ゴルフ用のネットがある
部屋でトスバッティングを始めた。もちろんボールをトスするのはおれ
の役目だったが、こいつはまた快音を響かせて鋭い打球をネットに放っ
ていた。


 で、その数日後。


 中目の放った打球は、バックスタンドに跳ねていた。
 投げたのはおれ。打ちごろの球をど真ん中に投げ込みはしたが、下手
投げとかではない。がしかし、予備知識の無かった五万の観客は静まり
返っていた。
 始球式に、かよわそうな少女が一三〇メートル先のスコアボードに打
球をぶち当てれば、誰だって驚くわな。何かやらかすだろうとは思って
たおれでさえ、そこまで飛ばすとは予測できてなかったくらいだ。
 始球式で投じられた球をスタンドに放り込んだ女性は、少なくともお
れが記憶してる中にはいない。それどころか、悠然とダイヤモンドを一
周してホームベースに戻ってきた人はもっといない筈だ。しかしあいつ
は、それだけじゃ満足してなかった。
 駆け寄ってきた報道陣から向けられたマイクとカメラに向かって、こ
う言いやがった。

「ホームラン打ったらあたしと結婚してくれるって約束、忘れてないよ
ね、タカシ君?」

 当然ながら、そんな約束はこれっぽっちもした覚えはなかったのだが、
マウンドに駆け寄ってきた報道陣に言えたとっさの一言は、あまり冴え
たものじゃなかった。

「は?あいつ流のジョークですよ、ジョーク!やだなぁ、みなさんマジ
に受け取って」

 カメラは当然ながらおれとあいつの間を何度も往復した。ひきつった
笑いのおれと、目の端に涙をうっすらと浮かべたあいつとが交互に映さ
れたら、世間がどっちに軍配を上げるのか、わからないおれでもなかっ
たが、こんななし崩しで生涯の伴侶を決められて喜ぶ野郎でもなかった。

 そこでおれは必死に考えた。相手の奇襲が大成功したのは今更否定で
きないとしたら、被害を最小限に留めるのが最善の一手だ。

 おれはマウンドから降りて、報道陣に囲まれたあいつの傍に立った。
「お前、本気か?」
 レイナはこっくりとうなずいた。
 周囲の報道陣がごくりと喉を鳴らした。カメラのフラッシュがまぶし
い。何を期待してるんだか知らんが、おれはお前らの勝手な期待に応え
てやる義理は無いぞ。

「そうか。だが、おれ達が知りあってまだ一週間くらいにしかならん。
そんなんで結婚してバツイチになんてなりたくねぇ。だからせめて、お
前との結婚を考えといてやるってことで手を打て」
「婚約だね?うん、いいよ、今はそれでも!」
 ちょっと待て!婚約ってのは、おれも同意したってことだぞ?おれが
いつ同意した?
 そんな反論は、だがしかしおれの首ったまに抱きついて頬にキスして
きたあいつに封じられてしまい、その映像は瞬く間に全国のトップニュー
スを飾ってしまった。
 一度世間に広まってしまった見聞を打ち消すのはむずかしい。それを
思い知るのはまだまだこれからだったが、おれはとりあえず騒がない事
にした。
 ほら、よくあるだろ?タレント同士の結婚だの離婚だの、騒がれるの
はそういった節目の時だけが大半だ。要は騒ぎ立てて世間の耳目を集め
るよりも、今は騒がずにいて世間の関心が少しずつでも逸れていってく
れることを願ってた。

 まぁ、それができると考えていたおれは甘かったのだろう。
 何せ、おれとあいつは全国でたった十六人しかいない抽選議院議員の
うちの二人だったのだから。

 かわいそうだったのは、プロ先発マスクの初戦の出鼻をあんな始球式
でくじかれてしまったイワオだが、おれの心配を他所に、あいつは特に
大きな活躍をするでも失態を演じるでもなく、ベテラン投手の完投劇に
最後まで付き合った。うん、十分だろ。

 試合後、自分も残ると言い張ったレイナを先に帰し、おれは球場関係
者の一室でイワオと会った。思い起こしてみれば、あのバックネットに
到達した一球以来、イワオと二人きりで向かい合ったのは初めてのこと
だった。
 いい試合だったな。そんな風に声をかけようと心に決めていたが、口
から出てこなかった。
 そんなおれを見て苦笑したイワオは、何かを勘違いしたらしい。
「大変だったね」と声をかけてきた。
「全くだ」
 そう応えて、おれよりは一回り以上ごついガタイをしてるイワオの胸
板をゲンコツで叩いた。おれが記憶しているイワオより、ずっとたくま
しくなっていた。
「南が、会いに来たよ」
 イワオの表情が強張った。
「あまり、良くは言ってなかったんじゃないか、おれのこと」
「その通りだ」
「タカシは、今のあいつを見てどう思ったんだ?」
「どう、って?」
「おれが正しいのか、あいつが正しいのか、さ」
「どっちが正しいのかはわからんが、ELってのは行き過ぎてる。そう感
じた」
「おれもだよ」
「でも、そこに南の考えが行っちまった理由がわからん。あいつはそん
なものに頼るような女じゃなかった筈だ」
「おれのせいでもあり、あいつのせいでもある」
「どういうことだ?」
「あの一球の後、自殺し損ねたおれを心配して、あいつはおれのところ
に来てくれた。お前を選んでいた南を諦めきれていなかったおれには、
千載一遇の機会だった」
「じゃあ、あいつはお前を選んだわけじゃなかったんだな」
「ああ。お前と切れていない限り、おれはまた自殺しようとしただろう
からな」
 聞き捨てならない云い草だったが、たぶんそれは起こっていたであろ
う真実だった。
「それはそれとしてだ、そんなお前がなんで南をふった?ロクでもない
理由でなら、左で殴るぞ」
「簡単だよ。誰かを罪悪感で縛り続けることなんてできないし、間違い
だって気付いただけさ」
「お前が、南をか?」
「最初は、そうだった。けど南は、自分で自分を追い込んでいったんだ。
お前じゃなく、おれを選択した責任が自分にはあるってな」
「正気じゃねぇ・・・」
「本人は大真面目だったさ。周囲の助けもあって徐々に立ち直っていっ
たおれを見て、離れていくかと思ったら、逆だった」
「初志貫徹か」
「そうだな。おれが球団側に迷惑をかけない程度に浮名を流して、それ
で愛想を尽かせてくれるかと思ったら、逆効果だった」
「それで、ELか」
「正直、まだあいつに未練が残ってないわけじゃない。だけど、あいつ
がおれに執心してるのは、おれを愛してるとかじゃなく、おれを助ける
為にお前を捨ててしまったことに責任を感じてるからなんだ。そんなの、
うまくいく筈が無い・・・」

 うまい答えを見つけられなかったおれは、ずっと胸の奥に引っ掛かっ
ていた問いを口にした。

「あの最後の一球。お前、わざと捕らなかったのか?」
「まさか。もしそうなら、自殺なんてしないさ。けれど」
「なんだよ?」
「この試合に勝ったら、お前は南にプロポーズするかも知れない。そん
な考えは、頭をよぎってたよ」
「で、あいつは断っていなかったろうな」
「ああ」
 そんな話を、決勝戦前夜にでもイワオにしてたのかも知れない。きっ
としてたのだろう。言うなれば、イワオの背中を押してしまったのは他
でもないおれ自身だったのか。
 イワオは、立ち上がって言った
「お前さ、抽選議員の任期一年が終わったら、どうするつもりだ?」
「まぁ、学生生活をエンジョイさせてもらいますよ。中学も高校も野球
漬けだったからな。その後のことは、その時考えるわ。大学なんて、
その為にあるようなもんだろ?」
「一部の人はそれ聞いて怒るだろうけど」
 イワオの笑顔に久々に出会った。あの一球の前のあいつの、誰も憎め
ないだろう笑顔に。
「がんばれよ」
 おれの分までとは言わなかった。
「言われなくてもな。お前こそ、おれなんかよりずっと大変な目に会い
そうだけどな」
「違いない。お前が始球式で見た通りだよ」
おれとイワオはどっと笑った。まぁ、全体として笑って済ましていいよ
うな話でもなかったかも知れんが、かつての親友と喧嘩別れするよりは
何倍もマシだった。

 球場からの帰り道。車内でAIに聞いてみた。
「抽選議員同士の結婚て、アリなのか?」
「抽選される段階で夫婦であったり、婚約関係にある両者が選ばれるこ
とは法的にありませんが、今回のように抽選された後に議員同士が婚約
ないし結婚することは法的に禁じられていません」
「かあさんは、どう思うの?」
 AIは沈黙した。ノーコメントが関の山だと思っていた。だから、
「よろしいのではないでしょうか?」と言ってきたことには素直に驚いた。
「よろしいってのは、この結婚がって事?あいつに対して?」
「私たちAIが婚姻関係を結ぶことはありません。感情と自由意思を持つ
のは人間だけです。人間同士がその感情と自由意思を行使してお互いの
距離を縮める事には、私達にはできない重要な何かがあるのでしょう」
 正直、AIがここまで人間と問答できるのは予想外だった。
「んじゃ、ついでに聞くけどさ、レイナについてはどう思うの?母さん
の意見を聞かせてよ」
「中目議員は、特別な方です」
「どう特別なの?」
「あの方は、パブリック・チルドレンとして登録された最初の子供で
もあり、これは一般には公開されていない情報ですが」
 おれに伝えていいかどうか誰かに問い合わせるような間を置いてから
AIは言った。
「私たちAIのヘッドマスターでもあります」
「あいつが、AI達の総元締めってこと?」
「少なくとも、日本政府に所属する全てのAIの統括制御系統の頂点にい
らっしゃることは間違いございません」
「ちょっと待った。オフィスにいる受付端末達が数百の処理を同時実行
可能だとか言ってたな。それをAI達が統括制御してると」
「ええ。日本の国家政府と道州政府、地方行政体などで使役されている
AIの総数は五十万体を超えます。その頂点にいるのは、首相でも官房長
官でもどの選挙議院議員でもなく超大型コンピューターでもなく、中目
零那その人なのです」
 頭がくらくらしてきた。
「んなわけあるかよ」
「あの方は、特別なのです。タカシ」
「どう特別なんだよ?なんで十代の女の子ていうか人間にそんな真似が
可能なんだ?」
「それは、あの方からご説明されるでしょう。私から今申し上げられる
のは、あの方から選ばれたあなたも特別な方ということだけです、タカシ」
「で、その理由はあいつから聞けって言うんだな」
 AIはうなずいた。

 そんなこんな色々あった夜だから、すぐに寝付けなかった。
 あんまりにも寝付けなかったもんだから、おれは起きだして、あいつ
の部屋の前まで行き、扉の前で迷った。
 いくらなんでも、午前零時を過ぎて女の部屋に訪ねてくってどうなん
だ?やり過ぎじゃないのか?せめて朝を待つべきじゃないのか?

 そんな一人問答をしばし繰り返した後、扉が開いて、レイナがそこに
いた。
「入れば?」
 だぶだぶのYシャツ一枚という無防備な姿で部屋の奥へレイナは戻って
いき、おれは、後に続いた。弁解させてほしいのだが、決してこれがY
シャツ一枚という無防備な姿に悩殺されたからってわけじゃない。かと
いって戻って眠れたかというと自信は無かったのだが。

 レイナは居間のソファでおれを待っていた。ラベルの貼られてない酒
瓶、氷の入ったグラス、つまみの薄切りチーズだのサラミが盛られた皿
がテーブルの上に乗っていた。
 ソファで組まれた白い足が艶めかしすぎた。

「タカシ君も呑む?」
「い、いや。おれはいい。ちゃんと、お前とは話をしておきたいんだ。
素面の状態でな」
「そう・・・。タカシ君は、どんな話が聞きたいのかな、かな?」
「AIも、赫さんも、お前に聞けって言うんだ。お前がおれに、全てを語
るだろうって」
「最終的には、そう、なるだろうね」
「最終って、おれが、お前を殺せばってことか?おれはご免だぞ、そ
んな役!」
「じゃあ、私がタカシ君にしてあげられることの見返りに、タカシ君は
私に何をしてくれるのかな、かな?」
「な、なにって・・・。お、お前、球場でのあれはなんだ?確かにお祝
いはしてやるって言ってたけどなぁ、限度ってもんがあるだろ?それに、
それに、あの橋の時だって・・・」
「じゃあ聞くけど、タカシ君にとって、野球で成功することと、お父さ
んとお母さんがなんでいなくなっちゃったのかがわかること、どっちが
大事?」
「そりゃあ、野球始めたきっかけは、有名になって両親が戻ってきてく
れることだったさ。だからって、野球がどうだってよかったわけじゃな
い!」
「でもね、タカシ君がここに来てくれるには、野球を諦めてくれてる必
要があったんだな」
「どういう意味だ?」
「プロスポーツ選手になれてたら、抽選議員にはなってなかったかも知
れないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「タカシ君は、どうして抽選議員に選ばれたと思う?」
「抽選されてクジに当たったから。それ以上でも以下でも無い筈だ」
「それが、もしも違ったら?」
「え・・・?」
 レイナは、もったいつけるように、グラスを傾けて間を取った。
「どういう意味だよ、それ?抽選議院設立もその抽選議員の抽選プロセ
スも、何年もかけて準備されてきたものじゃないか?」
「そう、思われてるよね。事実準備はされてきてたし、全てが嘘ってわ
けじゃない。でもね、みんながみんな本当でも無いんだよ」
「教えろよ!どういうことなんだ?」
「見返りに、タカシ君は何をしてくれるの?」
「ふ、ふざけるな!おれの左腕を、野球人生を奪っておいて、見返りだ
と!?女だからって・・・」
「女だからって、何?そんな度胸も無いくせに」

 レイナが、大きめのYシャツのボタンを一つ、また一つと外していった
せいで、振り上げられてたおれの手はそのままの角度で固定されてしまっ
た。

「ね、悪いことは言わないわ。私の言う通りになさい。私にすべてを委
ねれば、あなたの望んでいる答えはすべて手に入るの。それ以上、何を
望むの?」

 レイナは妖艶に微笑んで、固まったままのおれの手を取ってシャツの
内側に滑り込ませた。自分の胸におれの手を導いて、上から自分の手で
押さえた。

「こ、こんなの間違ってる!取引ってなんなんだよ。おれは、お前にとっ
ての何だっていうんだよ?」
「うふふ、無理しないで。タカシ君は私にとって、たった一人の約束さ
れた人なの。何があっても、決して私を一人ぼっちにしない人」

 レイナは、もう片方のおれの手を取り、自分のシャツの切れ目の方へ、
太腿の合わせ目の方へと導いた。
 指先が、あともう五センチメートルほどでシャツの影に隠れた部分に
到達するって時には、おれの心臓はばくばくいってた。
 なんかが違う、ヤバイ、ヤメロ!
 そんな警告が体の自制心とやらを取り戻したのは、ほんとに指先がそこ
に触れるか触れないかって寸でのところだった。
 おれはシャツの下に押し付けられたた手を引き抜くと、レイナを突き
飛ばした。

「お、お前な~。強制は良くないぞ」
「アタシ、そんなに魅力無い?」
「な、無くはないさ。けど言ったろ、おれは古風なんだって」
「まぁいいわ。今までもこのパターンが無かったわけじゃないし、時間
もまだ多少は残されてるから」

 今までも?パターン?時間が多少?なんなんだいったい?

「もう帰っていいわ。私、仕事があるから。出てって」
「お前が大層な立場にいることは光子さんからも聞いたさ。けどな、お
れの話は終わってない!」
「私と話がしたいというなら、もう一度聞くわ。あなたは私に何をして
くれるの?」
「見返りって言われてもよ、結婚とか殺せとか、そんなのハイソウデス
カって簡単に言えるわけないだろ!?」

 おれは逆上してたが、レイナの目は冷め切っていた。

「あなたの目には、この娘が冗談でも言ってるように聞こえたの?」

 この娘?

「どこでもない場所、いつでもない時、誰でもいい人を選んで身を投げ
たと、あなたは言うわけだ」
「何の話だ?おれはたまたまあの時あそこにいて、見上げたらそこにお
前がいたんじゃないか?」
「あれは、私とレイナにとっての大きな賭けだった。そしてレイナは賭
けに勝った」
「私って、お前は、誰だ・・・?」
「私は、私」
「レイナじゃないのか?」
「レイナとは別の存在だが、共存している」
「・・・二重人格ってやつか?」
「人間達のいう二重人格ではない。私は人間ではないのだから」
「だったら何なんだ?レイナに憑りついてる幽霊とでも言うのか?」
「幽霊か。ふむ、現象的には近いかも知れないが、定義的には違う」
「分かるように説明してくれ、頼むから」
「言葉は不完全過ぎる情報伝達手段だ。見せた方が早い」

 そいつはチーズをつまんでおれの口の前に差し出した。
 手にとってみると何の変哲もないふにゃふにゃなチーズで、とりあえ
ずかじってみた。
 ガキッ、という歯応えは、さすがに予想できなかった。
 歯が欠けたかも知れないと慌て、つまんでた物体を確認してみると、
それは弾丸になっていた。

「物質変換?でもどうやって?」
「どうしてそんな技術が可能になったと思う?」
「宇宙人から教わったとでも言うんじゃないだろうな?」
「宇宙人という呼び方は適切ではないかも知れない。地球外生命体では
あるが、あなた達が一般的に想像するような肉体を持った存在ではない」
「・・・本気で言ってるのか?かついでるんじゃないだろうな?」
「あなたの歯の痛みは幻覚だった?いきなり信じろと言われてもむずか
しいだろうけど」

 そいつは、おれの部屋にもあったマネキン人形を棚から持ち出してく
ると、テーブルの上に立たせ、おれに変化させた。服装も、顔形も、歯
の痛みをこらえてる様子も、全てが反映されていた。

「あなたは、これをどう説明する?」
「どうって言われても、わからねぇよ・・・」

 テーブルの上の小さなおれに手を伸ばそうとして、そいつもそっくり
同じ動きをトレースしたのに驚いて手を引っ込めた。もちろん、その仕
草は間を置かずに再現されていた。

「超小型カメラと物質変換装置の組み合わせか?」
「カメラは外れ。物質変換装置は当たり。じゃ、通信は?」
「無線?」
「人間が一般に使う無線技術であれば、送受信する端末と中継局が必要。
携帯もそう。携帯は、相手の持っている端末の番号を指定して、中継局
を通じて通信をつなげる。さて、ここで質問。この人形は、どうやって
あなたの現状を映し出している?」
「その人形と、おれとが、どこかでどうやってかつながっているか
ら・・・?」
「すばらしい答えね。そこからもう一歩先に進みましょう。あなたは、
自分自身に刻印された番号を知っている?」
「携帯の?住民基本台帳の?」
「そんな瑣末な物じゃ無くて。あなたという存在そのものを定義してい
る識別子」
 おれは、両手を上げて降参した。
「この世界の全てには存在を定義する識別子が割り当てられていて、そ
の情報がどこかに集積されているとしたら?全ての存在がここではない
どこかでつながっているとしたら?それが、答え」
「悪い・・・。正直、ついていけん・・・」
「物質変換とは、書き換えが可能な識別子を書き換えているに過ぎない
の。人間の行う料理の様な行為ではなく、紙に書いた文字を消しゴムで
消して書き直す行為にむしろ近い」
「でもよ、おれが『花』って文字を紙に書いて『ボール』に書き換えて
も、文字は文字だぜ。それは弾やら金にもなりゃしない」

 そう言う間にも、手の中にあった弾丸は花に変わり、ボールに変わり、
金塊にも変わり、弾丸にも戻ってから、また元のチーズになった。口に
してみると柔らかなチーズで、そのまま飲み下せた。

「デタラメな能力だな。質量保存の法則とかどうなってるんだ?」
「それは人類の認識している世界の法則のほんの一つでしかない。現在
の人類が認識している宇宙の始まりはビックバンという考えらしいが、
それでは宇宙が始まる前、それはどこにあったのかな?」
「・・・まさか、それと同じ所から出し入れしてるだけとか言うんじゃ
ないだろうな?」
「その通りよ、すばらしいわ!あなたが柔軟な吸収力を持った知性で私
は非常な喜びを覚えている。これはあなた達人類の言う巡り合わせだろ
う。世界は偶然以上の何かで成り立っているという実例をあなたは私に
体感させてくれた。感謝する」

 そいつは、まじめな顔つきで握手を求めてきたので、握り返してやった。

「感謝されてるとこですまないんだがな、そろそろ頭がパンク気味だ。
レイナに交代してくれないか?」
「彼女は・・・、眠りに落ちた。あまりアルコールに強い性質じゃない」
 本人が眠ってるというなら目の前で起きてるのは誰なんだかという疑
問は口にしなかった。
「最期に聞かせてくれ。あんたは何者なんだ?」
「あなた達の一部は、我々を『憑依者』とも『移住者』とも呼ぶ。だけど、
私は私」
「名前は無いのか?」
「私の識別子を人類は認識できないし表記することもできない。だけど
この娘と呼び名を交えたくないというのであれば、中目とでも呼べばいい」
「そうさせてもらうよ。レイナによろしく言っておいてくれ」
「レイナなら、そうだな、たぶんこうするだろう」
「ちょっ・・・!」
 っと待てという間も無く、抱きついてきて唇が奪われていた。
「なるほど。人間の感情が昂ぶるというのはこういう精神情報の状態を
言うのか。ではお休み、白木隆」
 中目は身体を離してソファに座り、まるで瞑想してるかのような表情
になった。その姿は座禅する仏像を連想させた。

 おれは何回かかぶりを振ると、来た時よりも困惑に満たされて部屋に
戻った。
 居間にはまだAIが控えてて、まるで朝帰りした亭主の様な気分になら
ないでもなかったが、さすがに頭がぱつんぱつんの状態ではこれ以上の
情報は受け付けられないのでベッドにそのまま倒れこんで次の朝を迎えた。


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